カテゴリー別アーカイブ: 旅行・散策

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もう一度GPS

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町田で5日間を過ごしてきた。東京都町田市は、神奈川県との県境にある。
東は神奈川県川崎市と横浜市・西は同相模原市・南は同大和市に隣接していて、神奈川県に三方向を囲まれている。小田急・小田原線は東京の新宿駅を出発した後神奈川県川崎市を走って、白洲次郎の武相荘がある鶴川駅で再び東京都に入り、2駅で東京の町田駅に到着する。町田駅を出ると、数百㍍で神奈川県相模原市に入って、次の駅は相模大野駅となる。町田駅は、相模原市の住民も日常的に使っているらしい。

小田急・町田駅もJR横浜線・町田駅も県境に位置している。小田急・町田駅の南口を出たところは、町田市ではなく相模原市のようだ。相模原市と町田市の県境は境川という小さな川だが、駅付近は相模原市の飛び地になっているため、話がややこしくなっている。JR町田駅近くのヨドバシカメラの入口は町田市だが、建屋の大部分が相模原市なので税金は相模原市に納めているらしい。ひょっとしたら、JR町田駅は全部相模原市に含まれるのかもしれない。

税金の話が出たので、基地交付金の話をしよう。基地交付金は、「米軍や自衛隊の施設が市町村の区域内に広大な面積を占め、かつ、これらの施設が所在することによって市町村の財政に著しい影響を及ぼしていることを考慮して、固定資産税の代替的性格を基本としながら、これらの施設が所在することによる市町村の財政需要に対処するために、使途の制限のない一般財源を、所在市町村に対して毎年度交付」とある。相模原市には米軍基地・キャンプ座間があり、区域内に広大な面積を占めることに該当するため、相模原市は当然基地交付金を貰っているだろう。一方町田市上空は戦闘機が飛来して、月曜日~金曜日まで騒音被害に晒されている。戦闘機が上空を飛行中はTVの声は聞こえず、インターフォンは会話が成り立たない。飛来物体は固定資産税の代替的性格を有していると解釈できないだろうから、仮に代替的性格を有していると拡大解釈したとしても、大した税金にならないだろうから、町田市は踏んだり蹴ったりの税収状況と思われるが、現実はどうなっているのだろうか?

町田駅の原町田側の商店街を歩いてみたが、平日にも関わらず人が繰り出し活気があった。駅前商店街に大型店舗が5つもあると、旧来の商店街は寂れるのが一般的だが、ここにはシャッター街は無かった。パークアベニュー・ターミナルロード・仲見世商店街・壱番街・弐番街と人が一杯だったが、印象的なのは、其々の商店街に個性があったことだ。専門店あり、ファッショナブルな店あり、飲食店あり、日常生活用品あり、昭和のレトロ調あり、何でもありだ。(下の青線は、歩き廻ったときのGPS軌跡。なんだか、動物の頭みたいだ。)

町田駅前

 

久し振りにGPS

GPS(スマホの機能を使用)を持って、銀座を歩いてみた。下の地図で青線がGPSのログである。
この地図はケバ過ぎるが、ここで国土地理院を擁護しなければならない。国土地図は全国を網羅するので、山岳部も都市部も表示しなければならない。山岳地帯は緑色・青色・茶色が多くなり、都市地区はその補色である暖色系を使うようになる。そのため建物が密集している東京は、赤色が多用されてしまうのだ。人が住んでいるところだけのGoogle Mapのようにはいかないのだ。

JR有楽町駅を降りて、まずはお堀に向かった。日比谷通りを左に曲がると、今治造船の文字が目に飛び込んできた。エ~、本社はここなのか。ウィンドウには亀老山から眺めた来島海峡大橋の絶景が掲げられているが、四国側の橋の袂に小さく見えるクレーンの林立が、今治造船の工場である。この前を毎日行き来する人たちで、今治造船がこの写真を掲げる意図を理解できる人はどれだけいるだろうか?

少し迂回をして、日生劇場と帝国ホテルの間を通って再び日比谷通りに出てきた。今日のランチは帝国ホテルで、という段取りである。日劇側の窓際に座ったので、GPSのログのほとんどは、日劇のビルと日比谷公園の噴水広場付近に落ちていた。ビルの中にいるとGPSの精度が落ちるのかもしれない。

帝国ホテルを出て、東京宝塚劇場と東宝ゴジラ像の前を通り、晴海通りを歩いて銀座四丁目に着いた。ここの目当ては、あんぱんの木村屋本店である。先代の当主が我が街牛久の出自だからだ。初代茨城県令・山岡鉄舟があんぱんを明治天皇に食してもらったところ、天皇から「今後も引き続き献上するように‥」という言葉を頂き、あんぱんの木村屋の基盤ができた。この後中央通りを経て新橋へ向かった。新橋の駅前通りは、毎朝晩歩いた通勤路である。サラリーマンの聖地で、7年を過ごしたことになる。

銀座散策

有楽町・銀座・新橋を散策した

 

入間航空祭

11/03(文化の日)に入間航空祭が開催された。入間基地(埼玉県)は街中にあり戦闘機の飛行訓練に制約があるため、首都圏防空任務を百里基地(茨城県)に譲っている経緯がある。したがって我が地元の百里航空祭の方が内容が濃いと思うのだが、車をどこに止めてよいのか分からないので躊躇していた。何事も経験するべきと今回入間航空祭のバスツアーを申し込んだ。、基地の中までバスで入れるとか、観覧する席が特設されているとか、何か特典があればと思っていたのだが全く期待外れだった。西武池袋線・所沢駅前でバスから降ろされ、添乗員の先導で基地正門まで20分程歩かされた。ここで添乗員が「バスは2時に出発です。込み合いますので、早めに帰ってきてください。何かあったら携帯に連絡を入れてください」と説明した後、大切なお客様を大混雑の正門に置き去りにしてバスに帰ってしまった。これがヒステリックな一日の序章である。

兎に角人混みが動かないのである。漸く正門を抜け身体検査を受けると余裕ができたので、今日の案内パンフレットを求めて、模擬店が並ぶ広場を探し廻った。パンフレットにざっと目を通すと、Blue Impulseの飛行は12:45~14:00、F-15Jの飛行は14:35~14:45。「エ~、F-15Jはたった10分間しか飛ばないの! バスが出発した後じゃないか」 そうこうしている内に、また渋滞に巻き込まれた。上空は雲が垂れ込めている。ブルーとホワイトに塗装されたBlue Impulseの艶のある機体は、太陽光の下の濃紺の空でないと映えない。戦闘機はレーダーに捕捉されないように塗料は乱反射するので、太陽光線が当たっていても鈍い色に写る。今日のどんよりした空では、良い写真は撮れないと、早々に諦めてしまった。全く人混みが動かなくなったので、「この先に何があるんですか?」と隣の人に聞くと、「踏切ですよ」と返ってきた。パンフレットを出して地図を見ると、基地の中を西武池袋線が横切っている。踏切の横には稲荷山公園という駅があり、この駅に電車が留まるため「開かずの踏切」になっている。基地の中に民間施設が入り込んでいるのか、基地の敷地が二つに分かれているのか、どうしてこんな不可解なことになっているのだろう?

Blue Impulseの飛行はたっぷり時間がある、と思っていたがそうではなかった。パイロットの紹介やらウォークダウンで大分時間が取られた。漸くエンジン音が全開して編隊が離陸して行ったが、薄暗い雲の下では地味なパーフォーマンスだ。おまけに通常は6機編隊だが、今日はなぜか4機しか飛んでいない。更に追い打ちをかけたのが、エアー・ショーの途中で「所属不明の物体が飛行空域に侵入したため、Blue Impulseの飛行を中止します」という突然の場内アナウンスだ。「??? 飛行機が飛ぶときはフライト・スケジュールを提出するのだから、そんなことが起こるはずは無いだろう! しかも航空祭の真っ最中にだよ…」と、なんか変だと思った。後で分かったのは、このときドクターヘリが侵入して来たらしい。近くに埼玉医科大があるので、急患が運ばれたのだろう。ドクター・ヘリでは仕方がないが、緊急時の対応がお粗末過ぎる気がする。自衛隊は重大行事をサドンデスにして良いのか? 航空祭は遊びだから、大したことではないか。

「今1時半だ、バスに帰ろう。正門は通らない」とかみさんに伝えた。遠回りの北門に向かったが、こちらも人混みで身動きが取れなかった。今誰かが大声を上げれば、パニックに陥り多数が押し潰されるのは間違いないと思うと、恐怖が湧いてきた。そんな中かみさんは、どこかに逸れてしまった。携帯電話を掛けても繋がらない。基地の中は施設の電波が強くて、携帯電話が圏外になってしまうんだと思っていたが、どうもそうではないらしい。来場者が盛んに携帯電話を使うため、電話業者が回線ダウンを回避する規制に入っていることが分かった。繋がらないからまた電話をするという鼬ごっこで、回線は増々混乱が酷くなっていく。動き始めて既に1時間半が経ったが、まだ基地の内だ。バスは出発してしまったかもしれないが、添乗員と連絡が付かないのだからどうしようもない。大半の乗客はバスに乗れなかっただろうと想像された。通行を規制しているロープを潜って、近道を走って北門に辿り着いた。基地外の道を所沢駅方向に歩いていると、朝とは別の踏切が立ち塞がっていた。漸く踏切を超えて歩いていると、携帯電話が鳴った。かみさんからだ。「踏み切の手前で止まっているんだけど、今どこにいるの?」と聞いてきたので、「ラッキーだ。踏切を渡ったばかりなので、ここで待っている。そのまま真っ直ぐ歩いてきてくれ」と電話を切った。二人揃って所沢駅に着いたのが4時ごろ。バスはまだ待っていた。最後の乗客が帰ってきたのは4時半ごろで、大混雑の正門を通って来た人たちだ。実に2時間半も遅れて、バスは帰路に就くことになった。余りのできごとに、はしゃぐ人はいなかった。

例年は5~6万人の人出だそうだが、そんなときでも入間航空祭は「人間(にんげん)航空祭」と呼ばれていたそうだ。今年はその3倍は入場していると現地で言われていたが、後日航空機の「追っかけ」をやっている人が、32万人が押し寄せたと言っていた。例年の6倍である。何でも航空機関係のTVドラマがあって、その影響を受けて人が繰り出したらしい。「みんなが行くから、行かないと…」という日本人の体質がよく出ている現象だ。同じ真似をするなら、「倍返し」の半沢直樹や「私、失敗しないから…」の大門未知子になってもらいたいのだが… 人生を掛けるような大それた真似はできないか。今年の大混雑はバス会社の想定を超えていたのだろうが、稲荷山公園駅の両端にある西武池袋線の踏切を渡るというルート設定は、来年からは避けてもらいたい。アンケート用紙に、散々苦言を呈した。

そんな訳で航空祭の写真が無いので、九十九里海岸沖の訓練海域から帰還した百里基地のファントム戦闘機を掲載する。

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裏磐梯

会津磐梯山は太古の時代、日本で一番大きな山だったと聞いている。元は「いわはしやま」と読み、『天に掛かる岩の梯子』を意味した。1887年(明治21年)水蒸気爆発で山体崩壊を起こし、檜原湖・小野川湖・秋元湖・五色沼を初めとする湖沼群が形成された。何度も山頂が吹っ飛んだため現在の標高は1816m、日本百名山に数えられるが、百名山中で標高は79番目に下落している。崩壊が激しいので文献の標高はまちまち、一番低い標高が最新の高さとなる。
台風が迫る中、磐梯山の北麓にある裏磐梯に行ってきた。磐梯山に登りたいのと、裏磐梯は写真の宝庫と聞いているので、その下見という気分だ。青空に映える紅葉もいいが、雨に濡れてしっとりした紅葉も風情がある。中津川渓谷は紅葉狩りの真っ只中、小雨の渓谷を歩いてきた。昨年の大町・高瀬渓谷は赤が鮮やかだが、ここ裏磐梯は黄色が中心である。訪れたのは定番の観光コース。猪苗代湖→五色沼自然探勝路→磐梯吾妻レークライン→西吾妻山を源として秋元湖に注ぐ中津川渓谷→裏磐梯ロイヤルホテル→磐梯吾妻スカイライン→浄土平(一切経山・吾妻小富士)→賽河原→福島市。冬場に体を温めたことのある土湯温泉や高湯も懐かしい。太陽の光が無かったため、五色沼は一色沼になっていた。五色沼という沼はここには無く、毘沙門沼を中心とした湖沼群を総称する。(五色沼という名称の沼は一切経山の麓にある)浄土平(標高1,600m)に登ると雲と風が吹き荒れ、一切経山は全く見えなかった。車窓からの眺めでは、スカイライン脇にガレ場が続いて硫黄の匂いがしていたので、晴れていれば活火山の荒々しい光景が広がっていることが想像された。近くに賽河原という不気味な地名もあった。こういう景色は、もう一度ここに来てみたいという気持ちにさせる。

今回スマホのGPS機能を使い裏磐梯の走行ログを採って、カシミール3D上に展開してみた。次は筑波山を歩いて登山ルートを3D上に再現しようと計画しているので、でき上がったらお見せしたい。

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渓 流
2013/10/24  13:20 裏磐梯・中津川渓谷
Canon EOS Kiss Digital + Canon EFS18-135mm
Tv=1/8秒 Av=10 ISO=100 手持ち

国際人(1)

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1.メルボルン
東京からメルボルンに電話が掛かってきた。 「帰りに寄って欲しいところがあるんだけれど…」 「いいですよ。どこです?」 「サウジなんだ。」 「…………  サウジアラビアは帰り道になんかには無いです。遠過ぎますよ。」 「そんなこと言うな。チョット横に飛ぶだけじゃないか。」 「チョットじゃないですよ。いやです。」 こんな会話は、普通の人達の間では交わせない。

2.オランダの田舎町
ロンドンでブリュッセルからの電話を受け取った。 「オランダの田舎町なんだけど、チョット寄ってくれないか。」 「分かりました。」 「駅を降りたら現地の人が迎えに来ている。田舎の小さな駅なので黄色人種は滅多に降りない。だからあんたは目立つはずだ。駅前に出たら、相手は直ぐ気が付くと思う。」 ブリュッセルとアムステルダムの間にある駅で、何をしに行ったか、どういう男と会ったのかはもう覚えていない。 ビジネス・ライクに言えば、海外出張命令書が出て、出張計画書の承認を得て、ディストリビュータにアジェンダを連絡して、成田空港から出発するのが筋である。 余所の国に出張するというのに、常磐線の何処かの駅に降りてくれと口約束するのと変わらない感覚だ。

3.チュニス
昼間カルタゴの遺跡を見学して、アルプス越えを敢行しローマを襲った将軍ハンニバルに思いを寄せた。 晩は度胸試しでナイト・クラブに飲みに行った。 思いもよらず、ホステスはスリランカとフィリピンの女の子だった。 スリランカは仏教国で人は優しいが、フィリピンはスペインの血が混じっているからか気性が激しい。 フィリピンの女の子が横に座ってしまったため、スリランカの女の子とは話しが出来なかった。 日本に来るフィリピン女性は中層階級だが、アラブに流れる女性は下層階級である。 貧困の中育ったであろう彼女でもアラブの生活は過酷で、心は荒むと言っていた。 女性が一人でアラブの生活をするのは厳しいだろう。 だから同じ黄色い肌をした男には、ホッとするのだ。 アラブの生活はもう長いという。 「またバクダッドに戻らないといけないんだけど、あそこには行きたくない。」と言った。 「バクダッドにあるアリババ広場って知ってる?」と聞いてきたので、「毎朝、通った道だよ。大統領官邸の近くだ。」と答えた。 「アリババ広場(写真下)の横に○○○○というナイト・クラブがあるんだけど知ってる?」と聞いてきたが、世界で最も危険な街の、その中でもホット・スポットにあるストリートで営業するナイト・クラブを知ってるはずがないだろう。 「バクダッドに来たら、店に寄ってくれる。」と聞くので、「今度行ったら、立ち寄るよ。」といい加減な返事をした。 マニラではフィアンセが待っているので、早く帰りたいと彼女は泣いた。 「マリーナ」と呼ばれていたが、マニラ湾を取り巻く海岸通りの名前がマリーナである。 故郷を懐かしんで自分の名前にしているのだろう。 帰るとき、「あなたの英語は上手い。身の上話を聞いてくれてありがとう。今私はパスポートを取り上げられているので、昼間も自由に外出は出来ない。でも会いたいので、明日○○時に○○○○で待っていて欲しい。行けなければ、御免なさい。」と約束して別れた。 翌日約束した場所で一時間ほど待ったが、彼女は姿を見せなかった。 過酷な生活なんだ!
パリやニューヨークという大都市での華やかな話ではない。 北アフリカの小さな国を舞台にした、中東の街の名も知れないナイト・クラブに立ち寄って欲しいという東南アジア出身の夜の女が語った悲しい身の上話しである。

4.バンコック
バンコックの国際空港タクシーはドライバーの不正を防止するために、目的地に着いたら「無事着きました。」と、乗客が自分でノートにサインするシステムだった(今はどうしているか知らないが…)。 空港でタクシーに乗ったら「貴方を覚えている。」と行き成りドライバーが言う。 その時泊まったホテルの名前も口にしていたようだった。 だが、空港から直接マッサージ・パーラーに連れ込まれた人を知っているので、警戒モードに入った。 「いつ頃だ。」「今年の○○頃。」「う~ん、その頃私はバンコックに来ているな。」と思い出しながら、「ノートを見せてくれ。」と頼んだ。 ノートを捲ってその頃のページまで遡ると、確かに私のサインが見つかった。 私はバンコックで著名人じゃないかと勘違いしてしまいそう。

5.マニラ
「成田空港に迎えに来て欲しい。」と電話を受けていたので、夜空港に向かった。 最後のゲートを通って、目の前に彼が姿を現した。 「ばかやろ~、お前は国際人か!」と怒鳴り散らした。 「えっ、どうしたんです。」と驚いている。 「湾岸戦争が始まったのに、お前は米国国籍の飛行機に乗ったのか。」 「あっ、済みません。」 彼は続けた。「マニラでも、こんなときにどうして来たんだ。」と言ってました。 これが日本人の本質である。 「危機管理」 「危機管理」と尤もらしいことを言っているが、根っこは無管理状態だ。

p20130822_02バクダッド・アリババ広場

パスポート紛失(2)

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九龍(カオルーン)駅構内の交番に入って、パスポートを失くした旨の説明をした。 担当者は「香港は祝日で、今日から一週間公官庁は休みです。あなたは一週間何の手続きもできないので、暫く日本へ帰れません。」と驚くことを言い出した。 「冗談じゃない、一週間もこんなところで暇を潰しているわけにはいかない。会社にパスポートを失くしたなんて言えるわけがないだろう。」 と自問自答した。 「私は外国からの旅行者だ。警察は、市民や旅行者が困っているときには支援する義務があるだろう。何か手を考えてくれ。」と陳情するしかなかった。 初めは担当者もいろいろ言い訳をしに来ていたが、それでも引き下がらない旅行者に愛想を着かしたのか、私の周りに寄り付かなくなってしまった。 「日本領事館はどこにある?」と聞くと、「香港島のセントラルです。地下鉄で行けますが、今日は祝日で閉館していますヨ。」と返事をしてきた。 「領事館の電話番号を調べてくれ!」 「電話をしても、今日は誰も出ませんよ。」 「いいから調べてくれ!」 もうこっちは必死なんだ。 交番が領事館に電話を入れたが、電話の応答はなかったようだ。 (このころ携帯電話という便利なものは日本になかった。) 「領事館に、職員はいません。」 「そしたら領事館の日本人職員の電話番号を調べてくれ!」 「ここは九龍半島地区なので、香港島地区の一般の電話番号は分からないんです。」 「そんなことを言うな。困っている旅行者を助けてくれ!」 こんな問答を二時間程繰り返して、遂に領事館の日本人職員の電話番号を手繰り寄せることに成功した。 「電話番号が分かりましたよ。」 「有り難い。その人に電話を掛けてくれ!」…… やった、粘り勝ちだ。 「日本人の領事館員に電話が繋がった!!!」

「パスポートを失くしたので、どうしたら良いのか相談に乗ってくれませんか?」と領事館員に丁寧に依頼すると、「今日は休みですが、セントラルの領事館まで来てくれませんか。私も行きますから。」と答えてきた。 「すみません、タクシーに乗るお金が無いんです。九龍駅まで来てもらえませんか?」とお願いして、受話器を置いた。 漸く先が開けてきたと喜んだ。 迎えに来てくれた女性の領事館員と香港島の日本領事館に入り、パスポート・現金・航空券を失くした顛末を説明した。 何度思い返しても、落としたのか盗まれたのか分からないと付け加えた。  「それは大変でしたね。香港は今週祝日で、手続きができないんですが…今戸籍謄本を持っていれば領事に面会して貰って、顛末が事実だと判断されたら、領事館の責任で数日後にはパスポートは発行されます。あなたの人間性が評価されます。戸籍謄本がないと、日本でパスポートを再発行することになるので、帰国は数週間後になります。」と、とんでもないことを言ってきた。 「外に方法は無いですかね?ここにいつまでも滞在はできないんです。」と縋ると、「渡航証明書というのがあるんですよ…日本政府が一回だけの渡航ということで発行するんですが、パスポートではないので、相手国が認めてくれないとその国の入出国はできないんです。複数の国に出入りするときは、発行は難しいんですが、日本に帰るんですか?そうですか、帰るんだったら、香港の出国だけが問題になりますが、作ってみましょうか?」と提案してくれた。 「もう一度言いますが、香港の出入国管理局がこの渡航証明書を拒否したら、あなたは香港を出られませんよ。」と念を押された。 「分かりました。やってみます。渡航証明書の発行をお願いします。」と領事館員に頼んだ。 「渡航証明書の発行に、身分証明書と写真が必要になります。」と言ってくる。 パスポートが無いんだから、身分の証明なんてできるわけがないじゃないかと思うのだが、ジッと堪えて頭を巡らした。 手はあるものだ、フライト・バッグから国際運転免許証を取り出した。 「この運転免許証は期限が切れていますね。」と言うので、「車を運転するのには失効かもしれないが、緊急時の身分証明書には使えるでしょう。」と食い下がった。 「茨城県の方ですか。私も茨城出身なんですよ。」と話しが飛んだので、水戸の梅や筑波山のケーブルカーの話しをしたのかもしれない。 「同郷の者なんだから、大目に見てくださいよ。」と懇願すると、雑談で出身地が証明されたのか、身分証明はクリアしてもらえた。 証明写真を撮るのに現金がいるのだが、トラベラーズチェックをどうやって香港ドルに換えたかは覚えていない。 街中で換金するときは普通パスポートが必要だが、滞在しているホテルではパスポート無しでも換金はできたように記憶している。 だが今はホテルにチェック・インしていないのだ。 そんなこんなで、漸く渡航証明書を手にすることが出来た。 最後に領事館員は、「一般の方にこういうことは勧められないのですが、あなたのように世界中を飛び回っている人は、戸籍謄本を携帯していると役に立つ時があるかもしれませんよ。」と教えてくれた。

親切にしてくれた同郷の女性領事館員にお礼を言って、地下鉄に乗り九龍半島の尖沙咀(チムチャーチュイ)駅に降りた。 宿泊を予約しているミラマー・ホテルへ歩きながら、今晩泊めてもらえるんだろうかと心配になってきた。 フロントで「一泊予約をしている者ですが、パスポートを失くして持っていません。」と伝えると、「香港にお友達はいませんか?」と質問してきた。 身分の確認をしていると思ったので、「香港に知り合いはいませんが、このホテルには何回か泊まっています。」と答えた。 「お待ちください。」と言って、コンピュータをチョコチョコと操作した後、「分かりました。お部屋をご用意させて頂きました。」と答えてくれた。 これで今夜のベッドは確保できた。 あとは航空券の購入だけだ。 ところが航空券をどうやって購入したのか、いくら思い出そうとしても、頭に浮かんでこない。 パスポート無しで航空券を購入できるのだろうかという疑問が残るのだが、この日の晩に成田行きの新しい航空券を入手したのは事実である。 一年後に紛失した航空券(未使用航空券扱い)の払戻しを受けたのだから… どうやって手に入れたんだろう?

翌朝、この事件で最大の関門となる旧香港国際空港・啓徳(カイタック)機場へタクシーで向かった。 出入国管理カウンターで「渡航証明書」を提出したら、即出入国管理事務所に連行されてしまった。 また初めからパスポート紛失の一部始終の説明をしなければならない。 自分の失態を何度も説明するのはもううんざりだが、取調官の心象を壊してしまったら、サドン・デスで香港を出国できなくなる危険がある。 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。 取調官が「あなたの説明は分かりました。 それで、中国大陸へ行っていたというエビデンスはありますか?」と質問してきたので、ここで時間が止まってしまった。 「えっ、そういう攻め方をしてくるのか。」 何か証明する資料は無いかとジーッと考えていたら、「そうだ、広州市で宿泊した東風飯店の宿泊領収書がスーツ・ケースにあるはずだ。」と、スーツ・ケースを開けた。 何時も宿泊している東風飯店の領収書を取調官の机の上に置いた。 「領収書の日付と話しは合っている。」と、取調官はニヤッと笑いながらそれ以上の追求はしてこなかった。 無罪放免で機上の人となり、懐かしい成田国際空港に戻ってきた。 翌日は出張計画通りに出社したので、 会社では誰もこんな事件があったことに気が付かなかった。 こんな貴重な体験は周りの仲間に教えておくべきだが、会社を退職した後も「門外不出」と封印してきた。 今回その封印を切ることにした。

追記)
香港の領事館員は、「パスポートを紛失してその翌日出国できるとすれば、あなたは非常に幸運な人です。」と言っていた。 確かにそうだろう。 出先で事件や事故に巻き込まれたとき、諦めることなく関係機関あるいは関係者とギリギリまで交渉するべきだ。 糸が繋がっている間に、手を差し伸べてくれる人が現れるかもしれない。 あるいは幸運が重なり、思わぬ展開に変わるかもしれない。 自ら糸を切ってしまうのは愚かだ。 そして考えているより、やってみることだ。

パスポート紛失(1)

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私が中国に行っていたのは、日中共同声明が調印(1972年9月29日)され、国交が正常化してから10年ほどしたときだ。 当時天安門広場でも、男性はカーキー色の人民帽に人民服、女性はズボン姿という殺風景な眺めだった。 偶然乗り合わせた列車の中で、白人がぼやいていた。「何日も列車を乗り継いでいるのに、外の景色はいつも変わらない。女の人は足を広げて座っているので、まったく女を感じられない。毎日が面白くない。」 彼のぼやきに同感である。 そんなとき天安門前を通る南京路を、人民帽を被った金髪の白人女性が真っ赤なスポーツカーで疾走している姿を見たことがある。 異次元の存在で、格好良かった。 まるでスクリーンから何コマかを切り取ってきたような風景だった。

当時日本政府が中国人に入国ビザを発行するのに二週間を用した。 中国政府はこれに対抗するため、日本人の入国ビザ発行を同じく二週間に延ばしていた。 これでは緊急の中国出張ができないため、香港に入って中国入国ビザの申請をすることが多かった。 実際の事務手続きは香港ではなく広州市でしていたらしく、パスポートが返ってくるまで2~3日が必要だった。 仕事を終えて、広東省の広州市から香港経由で帰国するときのことである。 中国の広州(グアンヂョウ)駅から香港の九龍(カオルーン)駅まで鉄道が引かれている。 (昔は香港の九龍駅からシベリア鉄道経由でロンドンのヴィクトリア駅まで列車が走っていた。) 特急列車は車内で入国手続きを済ませ、国境駅にも止まらず走り続ける。 普通列車(中国の経営)は中国側の深圳(センツェン)駅で降りて、深圳川上の出入国管理事務所で手続きをして、香港側の羅湖(ローウー)駅までスーツケースを引きずりながら1kmほど歩くことになる。 鄧小平(デン・シャオピン)副主席が深圳市を経済特区に指定してこの街は信じられないほどの発展を遂げたが、当時は辺境の寒村だった。 赤湾(チーワン)を挟んで対岸に建設された新香港国際空港の赤鱲角(チェクラップコク)国際機場に直結するフェリーが発着する蛇口(シャーコウ)地区には、人なんか住んで居らず荒涼とした海岸だったように記憶している。 喧嘩腰の広東語と東南アジアらしい喧騒の中を、地元の人たちと一緒に歩くのだが、私は喋る相手も無くただ黙々と歩くだけだ。 あ~暑い!!! 母親は子どもたちを怒鳴り付け、歩いている子どもたちも負んぶされている子どもたちも泣き叫んでいる。 引っ張られている山羊や籠の中に押し込められている鶏の鳴き声が煩い。 土埃が舞う未舗装の道路を進んで行く。 漸く羅湖駅に着いて、乗った列車(英国の経営)は蒸し風呂だ。 終着駅の九龍駅に着いたので乗車券を出そうとしたが、直ぐに見つからなかった。

「おかしいな。どうしたんだろう?」と思いながら、フライト・バックの中を調べてみた。 「ない、へんだな。スーツ・ケースのなかかな。」とこれも調べてみた。 乗車券をスーツ・ケースに入れる訳は無いのだが… パスポート・現金・帰国の航空券が無いことが分かった。 何故かトラベラーズ・チェックだけが残っていた。 もう一度調べ直そうと、今度は駅のコンコースにスーツ・ケースを広げて、中身をひっくり返して探してみたがパスポートは出てこなかった。 漸くことの重大性に気が付いて、恐怖が広がってきた。 国境で落としたのか、列車の中で盗まれたのか。 駅の改札口で「乗車券を失くした。パスポートも現金も無い。」と言ったら、駅員は係わらない方が良いと思ったのか、「運賃はいりません。」と答えてきた。 「警察署はどこにありますか?」と問うと、「この駅の構内に交番があります。」と教えてくれた。 改札口を出ると、「これはえらいことになった。これからどうなるんだろう。」と頭の中は、あれやこれやとグルグル廻りだした。 取り敢えず、駅員が指さした方向に歩き出すしかなかった。 えらいことになった!!!

国境(3)

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国境とは二つの国の領土の境界線である。 領海と領海の境界も国境線のはずだが、実際には陸上にある境界を国境線と呼ぶことが多い。 そう言うことであれば、日本に国境線は無いことになる。 しいて言えば、北海道と国後島・歯舞諸島間には日本とロシアの領海が接しているので、ここに国境線があることになる。 日本人がここに国境線があると言うと不謹慎だが、サンフランシスコ講和条約ではそうなっている。 一方日本は世界第6位の海岸線を有する国である。 周りは全て海なのだから、主権が及ぶ12海里(22.2km)まで広げると、領海の境界線(実質的な国境と呼べると思うが…)は世界有数の長さとなる国なのである。 にも拘らず、日本国民は国境にあまり関心がなく、自衛隊や海上保安庁の動きを傍観しているだけだ。 私もその一人だが…

国境には自然的国境と人為的国境がある。 自然的国境は山脈の稜線、河川の一番深いところを繋いだ線(川幅の真ん中ではない)、湖沼などがあり、人為的国境では条約・経線・緯線・道路などで決められる。 アフリカ諸国の国境に直線が多いのは、植民地時代の宗主国が未知の大地を彼らの論理で分割したからであり、中東諸国の国境は、第二次大戦の戦勝国の利権で引かれたものである。 そのため、人為的に引かれた国境では紛争が絶えない。 エルサレムがその代表である。 戦勝国が、パレスチナにユダヤ人のためのイスラエルを建国して、エルサレムを分割した。 このとき国を追われたパレスチナ人は生活する土地を失い、ヨルダン川西岸で難民となるのである。 エルサレムは、元々ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地として宗教的対立が激しかったところに、政治的対立が加わるという悲劇を生む結果になった。 エルサレムは2000年前にダビデ王が統治したユダヤ人の故郷なのだと言うことは分かるが、戦勝国旧ソ連が「日暮里はアイヌ民族が住んでいた土地だ。東京から北海道までをアイヌの国にする。大和民族は東京より以西とし、日本を分割する。東京は両民族の共同統治とする。」と突然宣言するようなもので、もともと無理がある。 尖閣諸島も竹島も何百年も遡って史実の断片を持ち出せば、どっちの国の領有地だか分からなくなる。
韓国と北朝鮮を分割する38度線は、軍事境界線であって国境ではない。 休戦協定が昇華して平和条約が締結されると、はじめて国境が確定する。 国境があるべきだと思われるところに国境が無いところもある。北京政府の権力が届かない内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、チベット自治区などである。 今はどうか分からないが、北京政府のビザを持っているのに、内モンゴル自治区政府の通行証を発行してもらわないと内モンゴルに入れなかった。 内モンゴル自治区の人は自由にモンゴル国に出入りできるとも聞いたが、これは定かではない。 だが現地に行くと、「それもありだ。」と思ってしまう。

中国側の深圳駅と香港側の羅湖駅を何回か歩いて渡ったことがある。 民族も言語も歴史も同じなのだが、政治体制が違った。 そのために国境沿いに暮らす人たちの生活レベルが全然違うのだ。 政治体制は、こんなにも人の生活を変えるものなのかと衝撃を受けたことがある。 ジブラルタル海峡のモロッコ側に小さな地域だがスペイン領がある。 旧ソ連の潜水艦がイスタンブールのボスボラス海峡を通過して黒海から大西洋に南下するのを監視するため、西側諸国の重要な軍事拠点としての役目を担っていた。 モロッコ側のタンジールでバスを降りて、国境線となる跳ね上げ式のバーの下を歩いて、スペイン側のセウタでバスに乗った。 二つのバスの窓から眺める景色は、「これは何だ!」と驚愕する程変化する。 服装・肌の色・文字の形・言葉の響き・建物の様式など尽く違う。 生い立ちも宗教も全く違う。 モスクだったのが、チャーチになってしまう。 アフリカ北西部に張り付いている隣り合わせの小さい二つの街なのだが、これだけ全てを激変させる国境線とは何なのかと考えさせられた。
歩いて国境線を跨ぐと、はっきりと何かが変わるのを実感できる。 この記事を読んだ読者には、歩いて国境を渡る経験をして欲しいと思う。

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人為的国境 (+++が国境。左の部屋がベルギー、右の部屋がオランダ)
ベルギーとオランダの国境線が村の真ん中にあるバールレ村の家
ベルギーの飛び地らしい (写真はウィキペディアから)

国境(2)

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バングラディッシュのダッカ空港。 わが社のディストリビュータにロゴ入りのTシャツ・帽子・ライターなどをお土産として、ダッカ国際空港に降り立った。 税関でお土産に300us$を請求された。 「これは高すぎる。おかしい!!!」と言っても取り合ってもらえない。 こんな話しをいつまで続けていても解決はしない。 「分かった。大半はスリランカに持っていくお土産だ。バングラディッシュに持ち込む必要はない。空港に保管しておいてくれ。」と頼むと、「そんなことは出来ない。」と返ってきた。 「どこの国の国際空港にもデポジット・システムがある。入国するとき空港に品物を預け、出国するときに預けた物を返してもらう制度で、こうすれば税金の対象にならないんだ。」と説明すると、「この空港にはそんな便宜は無い。」と全く相手にしてくれなかった。 「200us$ に負けて置くよ。」と言うので、仕方なく払うことにした。 「領収書を書いてくれ」と頼むと、「そんなものは無い。」と拒まれた。 領収書を貰えるわけはないよなと納得した。 「隣にいる男と分けるんだな。あいつらグルなんだ。馬鹿やろう!」と思いながら、出口に向かった。
出口で制服を着た男たちが立っていて、「あなたは税関吏にお金を渡しましたね。」と聞くので、「200us$も取られた」と答えた。 「そうですか。ではこちらに来てください。」と税関事務所に案内された。 机に座っていた制服姿は税関の所長だと言ったと思う。 「お~、200us$が返ってくる。きちんとした空港じゃないか。」と喜んだ。
そして税関の所長は質問してきた。 「あなたは税関吏のポケットにお金を入れたそうですね。」と聞いてくる。 この言葉を聞いて、私は仰天した。 「俺は贈収賄の嫌疑で取調べを受けているんだ」と動転した。 「どうするんだ。」と頭は早送りの映像のように回転を始め、心臓は早鐘を打ってくる。 「税関吏から300us$を請求されたから、手渡しただけだ。ポケットに捻じ込んだのではない。」 「そうですか。それでいくら渡したのですか?」 「200us$」 「あなたの話が本当かどうか分からない。あなた自身がその税関吏をここへ連れて来て下さい。」 「分かりました。荷物はここに置いておいてよろしいか。」 「構いません。」
所長室を出るとき、「税関吏が見つからなければ、逮捕されてしまう。」と、もうパニック状態だ。 税関の中を探し回って、仕事をしているあの税関吏を見つけた。 兎に角必死なのだ。 「一緒に来てくれ。」と腕を掴んで、所長室に引き摺って行った。 所長が「この人が、お前から200us$を取られた言っているが本当か?」と彼に聞くと、彼は以外にも事実を認めた。 彼がポケットに手を突っ込んで、掴み出したのは100us$札一枚だった。 「あなたは200us$を渡したと言っていたが、100us$じゃなかったですか?」 「彼の隣に民間人が一人いた。その男と100us$づつ分けたのだと思う。」 「そうするとあなたは見ず知らずの民間人に、何の理由も無く100us$を渡したことになりますね。どうしてそんなことをしたんですか。」 こう言われたとき、私は妙に彼に感心してしまった。 この男は頭が良い。 This guy is quite smart. だ。 だが感心している暇はないのだ。 所長のこの質問に、私はその場で答えられなかった。 今答えるとすれば、「民間人は官憲に従わないと、えらいことになるからだ。」というのが正解か。 今回は官憲に従ったのに、えらいことになってしまったのだが… このあと税関の職員同士が話し合って、決着が着いたところで、私は無罪放免となった。 あの税関吏はどう処罰されたかは分からない。 こんなことは日常茶飯事で、何の制裁も受けなかったのかもしれないが、私にはそんなことはどうでも良いことだった。 出口で先ほどの制服組がニコニコ笑って私を通してくれたが、どういう意味の笑いか分からなかった。
太陽がガンガン照り付ける空港の外で、ディストリビュータの職員が長時間私を待っていてくれた。 「何かあったのか?」 「うん、あった。」 「そうか。」 ムッとした湿気が押し寄せてくる暑さ、喧騒が渦巻く街路、今でもアジアの人々の生活は大好きだ。

エジプトのカイロ空港。 空港の玄関を出てタクシーに乗ろうとしたら、警官に腕を掴まれた。 そのまま近くの交番に連行された。 「あなたは今白タクに乗ろうとした。」と説明を受けた。 「私は今空港に着いたばかりだ。白タクかどうかなんて考えてもいなかった。」と主張したら、直ぐに開放してくれた。 あ~、疲れる。 カイロのタクシーは、エアコンの能力が暑さに追いつかないので、窓は開けっ放しだ。 タクシーが走ると、熱風と砂埃が車内に飛び込んできて地獄の様相だ。

国境(1)

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チュニジアからアルジェリアに車で国境を越えた人が、アルジェに来て怒っていた。 「このラジオに法外の税金を掛けられた。」と言うのだ。 「ラジオという高級な商品に税金を掛けられたのだろう。それなら壊して、ラジオの機能を失くせば良かったのじゃないか。」と答えた。 「良いところに気が付いた。俺もそう思ったので、税関吏に聞いてみた。税管吏はこう言ったのだ。」 「税関の敷地にあるものは、税関の管轄になる。個人の持ち物ではない。それを壊したりしたら、器物損壊罪で逮捕される。」 「滅茶苦茶だな。そんな法律があるのかね。」と答えたが、税関吏に聞くことがそもそも間違いなのだ。 黙って壊してしまえば、税関吏の対応は違ったかもしれない。
国境ではこんな話しはいくらでもある。 税関吏と対峙して話しがこじれると、警察沙汰になってしまう。 どこの国の海外滞在者も、外国人がその国の官憲に逮捕されると大変な目に合うことが分かっているので、事を荒立てないという習慣が身に着いている。 税関吏はそれを良いことに、やりたい放題だ。 国によってまた税関吏によって対応がまちまちなのでやっかいであり、時には非常に危険な状況に陥る。 そのため法律はあっても、無いに等しいのだ。

ブリュッセル(ベルギー)とパリ(フランス)を結ぶ高速道路の国境検問所での出来事である。 一年ぶりに日本に帰る相棒をパリ郊外にあるシャルル・ド・ゴール国際空港に送るため、車を運転して検問所に着いた。 普段は「行け」という合図を受けて、車を止めることもなく素通りするのだが、この日は違っていた。 車のトランクを開けるだけでなく、「二人ともスーツケースを持って、検問所の建物に入れ。」と命じてきた。 「スーツケースを開けろ。」と指示があったので、その通りにした。 税関吏は中身をひっくり返して、スーツケースを調べだした。 「急がないと、飛行機に間に合わないんだ。」と言っても、無視し続けた。 漸く検査が終わったが、税関吏は何の挨拶もしなかった。 この横柄なやり方に、今まで我慢していた気持ちがぶち切れてしまった。 「出した荷物を元に戻せ。お前がやれ!」と大声で怒鳴ってしまった。 突然の怒鳴り声で、室内の空気は静まり返った。 怒鳴られた税関吏はジッと佇んでいたが、暫くしてスーツケースに近づいて来て、荷物を片付けはじめた。 彼は屈辱なのだ。 彼の顔から仲間の目を意識しているのが感じ取れる。 仲間の前で白人である俺が、黄色い奴から罵倒された。 こんな屈辱はないと彼は思っているのだ。 荷物が片付けられたので、「ありがとう」と一応の挨拶はした。 ピーンと張り詰めた室内の空気を後に、税関の建物から出てホッとした。 思わず怒鳴ってしまった後、実は私もこの先どうなるんだと緊張で一杯だったのだ。 パリに向かう車の中で相棒は、「もう止めてくれって念じていましたよ。やっと東京へ帰れるという直前に、足止めを食ったらどうしよう…ともう気が気でなかったですよ。」と振り返った。 彼は成田行きの飛行機に間に合い幸せな気分だったろうが、私はこの後一人で地中海を渡ってアフリカに行くのである。 心は寂しくまた苛々していたために、国境で爆発してしまったのだろう。 この事件は、その後海外事業部で語り草になっていくのである。

先ほどと同じ国境検問所。 今度はフランスからベルギーへ入国するときである。 アルジェの山には松茸が自生している。 アルジェリア人は松茸を食べる習慣が無いため、我々はいくらでも食べられた。 風味は日本の松茸と同じで、一晩で一人何㌔も食べた。 これぞ、松茸三昧だ。 この松茸を車のトランクに詰めて、我が社のブリュッセル事務所に届けることにした。 アルジェ港からフェリーに乗ってスペインのマジョルカ島に寄港してマルセイユに上陸する。 ここからリヨン・パリを経由してベルギー国境まで1000km以上を運転して、国境検問所に到着した。 フランスの検問所を通過して、ベルギーの検問所に出入国管理の書類として、パスポート・国際運転免許証・車検証を提出した。 このとき車検証にクレームが着いた。 この車検証はベルギーで取得したのだが、「ベルギー国内で運転するのは問題ないが、一度ベルギー国外に持ち出すと失効する。」 という条件付きなので、再入国は許可できないという驚くべきことを通告された。 ベルギーに入国を拒否されたので、フランスの検問所に戻るしかなく、「こういう事情でベルギー入国ができなかった。フランスはこの車検証で入れてくれるのか?」と質問したら、「それはベルギーの法律の問題だ。フランスは入国を歓迎するよ。」と失効した車検証のまま、国境を通過させてくれた。 私はそれまで気が付かなかったのだが、どこの国の車検証も持たずに、いろいろな国でこの車を運転していたことになる。 知らないということは、怖いことだ。 ヨーロッパの国境はそんなに厳しくはないだろうと、その時は深刻な事態が待ち構えているとは考えていなかった。 田舎の国境に行けば何とかなるだろうと、フランス側の別の国境に向ったが、ここでもベルギー入国許可は下りなかった。 車の車検証を取ったのはブリュッセル事務所なので、事務所に電話を入れて「どうしてこんな条件が付いているんだ。入国できるように書類を揃えてくれ。」と事情を説明した。 驚いた事務所から人が飛んできたが、「我々もどう手続きをしたらよいのか分からない。一度ブリュッセルに帰ってどんな方法があるか調べてみるから、この国境に留まってくれ。」と説明して帰っていった。 どうやら車検費用を安くしようとして、こんな条件が付いてしまったのだろう。 担当者は事務所のために働いたのだろうが、使用者がどう使うかまでは考えが及ばなかったのだろう。 組織で働いていると、よくある話だ。 数日後必要書類を揃えて、事務所の人が国境に来てくれた。 この書類をベルギーの出入国管理事務所に提出して、漸く入国を許された。 当時日本人が開発したインベーダー・ゲームがヨーロッパでも人気があって、毎日ホテルのインベーダー・ゲーム機で時間を潰す羽目になってしまった。 真昼間からバキューン・バキューンである!!! アルジェ出港からブリュッセル到着まで一週間も掛かってしまっため、折角運んだ高級品の松茸は全滅してしまった。