ホステス

p20130425_01朝日新聞の日曜版に、be という冊子がある。 先日読みたい記事が載っていたのだが、捨ててしまったので、「おとどけ工房」に持ってきてもらった。 普段この冊子は読むことがないのだが、面白い記事があったのでbeを連載することにした。 本HPの記事は自分が体験したことを書いてきたのだが、この記事は私には全く縁がない世界である。

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マスオ(サザエさんの旦那)の内なる病のひとつは、全精力をかたむけて水商売のホステスさんにモテようとすることだった。
会社にいる平日の夕闇せまるころはたぶん、ありったけの情熱と知力をモテるテクニックの開発につぎこんでいたのだろう。 でなければ、今回の掲載作 (*1) のような小ずるい身分詐称まで思いつくはずがない。
1970年に掲載された漫画では、題して『バーでもてるコツ』という本まで買い求めている。 妻子ある身でなぜ、そこまでしてホステスさんにモテたかったのか。 心に屈折した闇でも抱えていたのか?
時代はうつり変わっても、ネオン街には性懲りもなくモテたい男たちが群がってくる。 でも、その欲望を受けとめるホステスさんの心情は様変わりしているかも知れない。 昭和の高度経済成長時代、マスオのような男たちをあしらう女心も、やはりエネルギッシュだったのだろうか。

東京スカイツリーのおひざ元、東京都墨田区の京成曳船駅近くに、下町人情が濃密に感じられる「キラキラ橘商店街」がある。 その一角で戦前から店を構えるそば屋「五福家」の女将、近藤千代子さんは、「日本一のホステス」だった経歴がかいわいで知られている。
ある雑誌が四十数年前、働く女性の特集を組んだとき、当時、独身で東京・神田のキャバレーに勤めていた千代子さんはホステス代表に選ばれ、ビキニの水着姿の写真がグラビアに載ったのだという。 「コンテストで優勝したわけじゃないから、自称『日本一』なんです」。 夫の2代目店主、安昭さんは、はにかむ千代子さんに代わってそう語る。
高校を出てから、迷うことなく入った神田のキャバレーは雑居ビルの地下にあり、約60人のホステスさんが控えていた。 毎晩10人以上の客から指名が入る千代子さんは、たちまち看板ホステスになったそうだ。
「毎日、開店前に30分もかけて、あいさつや接客の言葉づかいを仕込まれるんです。 『お客様は神様と思え』と徹底的にたたきこまれて、とにかく明るく愛想よくしようと心がけてました」と千代子さんは語る。 土地柄、常連客の大半はサラリーマンで、渡された名刺の束が片手ではつかみ切れないほど、かさばった。
27歳のとき、高校時代の先輩に連れられて来店した安昭さんは、千代子さんにひとめぼれ。 なみいるライバルを、いちずな誠意で出し抜いたという。 「キャバレーに通う小遣いには事欠いたけど、車を持っていたから1年間、仕事帰りのこの人を1日おきに家まで送り届けたんです。 それでなんとか同棲へこぎつけた」

ところ変わって大阪市へ。 やはり高度経済成長時代に水商売の世界へ飛びこみ、いまだ現役のホステスさんがいるのである。 京橋のキャバレー「ナイトクラブ香蘭」の源氏名「ひばり」さんだ。
生家が貧しく、高校の卒業式の日からキタのキャバレーで働き始めたひばりさんの人生は、ほれた男に貢いだりヤクザにつきまとわれたりで波乱万丈だったという。 しかし、どの店でも指名トップの座は譲らず、「香蘭」でも長らくナンバーワンだった。 「こっちからもプレゼントで攻めて攻めて攻めるんですわ。 いまでも、なじみのお客さんには、百貨店のバーゲンで買うといた高級靴下をあげると喜んでくれはる。 そのために毎日、出勤前は380円の牛丼だけ食べて節約してまんねんで」
男に甘えられるから来世も女でいたい。 でも、ホステスはこりごりだと、ひばりさんはいう。 「悲しい目にあうことばっかりやったからな」
哀愁とともに、昭和の残像のようなキャバレーの夜はふけていった。

(*1)  1968/04/02の朝刊で、 マスオさんはバーに来ていて、事件の証拠品らしきものをズボンのポケットから出したりして、刑事さんに成りすましている。

朝日新聞 be (2013/04/13) から転載
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